⻘森りんご植栽150周年記念!津軽のじょっぱり達が作るりんごクラフトビール!その名も「酔えるアップルパイ」

【⻘森にりんごが伝わって150年。豪雪地帯で試⾏錯誤を繰り返しながら培われた栽培技術で育てられた⻘森りんごを使⽤した150周年記念クラフトビールを企画しました】

「⻘森りんごクラフトビールの会」 株式会社⼯藤農園 ⼯藤貴久(左)と合同会社トキあっぷる社 ⼟岐彰寿(右)

 ⻘森県の代表といえばやっぱりりんご! 今回の第⼀弾クラフトビールには、⻘森県の⽣産量第⼀位の「ふじ」、りんごの王様と 呼ばれる「王林」という2つの品種を使⽤します。

・ふじ
 ⻘森県藤崎町で⽣まれた品種で、県内⼀であり世界一の⽣産量を誇る。果肉はシャキシャキとした食感で、果汁が極めて多く、甘酸のバランスに優れています。

 

・王林  
 「りんごの中の王様」という意味を込めて命名された黄緑色の品種。

果汁が多く強い甘さと香りは独特の風味。サクッとした軽い食感が特長です。

【津軽藩⼠の末裔 ⼯藤貴久(くどうたかひさ)】

⼦供たちにもわかりやすくりんごの解説

 クラフトビールの原料となるりんごを育てるのは、株式会社⼯藤農園の社⻑にして津軽藩⼠族9代⽬である⼯藤貴久です。「りんご栽培の⽗」と呼ばれた外崎嘉七の⾨弟を曾祖⽗に持ちます。明治2年から始まった明治維新による版籍奉還によって失業状態にあった津軽藩⼠への対策としてりんごを栽培しました。それから150年の間、幾多の異常気象や被害を乗り越え、りんごを栽培し続けている唯⼀の旧藩⼠末裔が⼯藤農園を営んでいる⼯藤貴久となります。

 約7500坪のりんご園を管理しながら、公益財団法⼈⻘森県りんご協会の職員として県内外の⽣産者や研究者と交流しています。さらに海外のりんご⽣産国へ視察に赴くなど、国内外のりんご栽培に精通した「りんごの達⼈」です。その経験、技術、アイディアを活かし、の「ブラタモリ」や「ご近所の底⼒」「旅ラン」「趣味の楽園」「グレー テルのかまど」をはじめ地元テレビ番組にも多数出演、様々な書籍や教材にも掲載され、TRAIN SUITE 四季島で⻘森りんごの歴史や案内なども⾏っています。


 「津軽のじょっぱり魂と、150年培われてきた先⼈達の技術や書物、同業者の皆様との交流や多種多彩な業種の⽅々との出会いによって今の⾃分がある」と⾔う気持ちを忘れずに 様々な活動に取り組んでいます 

【ヤッテマレ魂で、これまでもこれからも ⼟岐彰寿(ときあきなが)】

世界で唯一の和装のリンゴのお酒「ときシードル」を開発

 衝撃を受けた1本のシードル。トキでシードルを造りたい!下北・サンマモルワイナリーのシードルの衝撃的な美味しさに運命を変えられました。この経験から閃きを得て、⼟岐家の先祖明智光秀の末裔である⼟岐⼀族が開発した⻩系りんご「トキ」を使って、シー ドルや加⼯品開発で五所川原に貢献したいと、Uターン就農。完成した「ときシードル」 は国内はもちろん、アジアからも⼤きな注⽬を集め、台湾では即完売しました。⻘森県やトキのPRにも貢献し、その後も、⾚いシードルなどユニークな商品を開発。五所川原市出⾝の⽂豪・太宰治が飲んだとされる⼩説「津軽」に登場するリンゴ酒を再現してみたい。終戦前後に⽇本酒の代⽤となっていたリンゴ酒をイメージして、⽇本酒酵⺟を使⽤しリンゴ酒 「津輕」を完成させました。「津輕」と併せて開発したリンゴ酒「RASHO」と組み合わせて発表し、以降も太宰治にちなんだ商品を続々と開発し、観光客にもアピールすることで地域を盛り上げています。

 

 若⼿農家グループ「梵珠のもつけんど」を結成し、外国⼈観光客なども対象に夜間にりんご畑をライトアップしてキャンプができるツアーを企画し、魅⼒的な⾷体験企画として2023年に農林⽔産省から表彰されました。ヤッテマレ!とは五所川原立佞武多の掛け声であります。⾃分を突き動かす原点となっている「ヤッテマレ魂」で周囲を巻き込み、仲間を増やしながら次々と新しいことに挑戦しています。

 

【りんごの始まり】

県内ではじめてりんごが結実した地(旧⼭野茂樹邸跡地)に建⽴されているリンゴ初⽣りの碑(弘前市)

 ⻘森といえばりんごです。まるで何百年も前からずっと栽培されているようなイメージがあるほど、⻘森といえば「りんご」です。しかし、実は⻘森県にりんごが伝わったのはわずか150年前なんです。今から153年前の明治4年、開拓次官 ⿊⽥清隆(くろだきよたか)がアメリカ合衆国からりんごの苗⽊(75種)を購⼊し東京⻘⼭の官園(農業に関する試験や試作をする機関)に植栽されました。それから3年後の明治7年、内務省が全国へ苗⽊を配布しました。そして翌年の明治8年、⻘森県庁にりんごの苗⽊本が植えられたのです。

今年2024年が植栽150年目、翌年2025年が150周年ということになります。

⻘森ではじめて実ったりんご【紅魁】(べにさきがけ)

 明治10年、⻘森県弘前市にある⼭野茂樹邸で、はじめてりんごが結実しました。実ったりんごは3つだけでしたが、これが⻘森りんごの原点となったのです。 後に、この地には「リンゴ初⽣りの碑」が建⽴され⼭野家記に記された内容が碑⽂として刻まれています。

【津軽藩⼠が育てた⻘森りんご】

「りんご栽培の⽗」と呼ばれた外崎嘉七夫妻とその⾨弟達(⼤正11年頃)

 その後、配布されたりんご苗⽊は、廃藩置県後、失業武⼠達の就農対策として取り⼊れ られました。そして、旧弘前藩⼠で後に「⻘森りんごの開祖」と呼ばれた菊池楯衛(きく ちたてえ)の熱⼼な栽培技術普及と、これに続く熱⼼な⼠族等によってりんご栽培は広がり、弘前では旧藩⼠を中⼼に屋敷畑で栽培が⾏われ始めたのです。さらに⽣産が拡⼤して いくと、畑地、原野へと園地が広がり、⻘森県はリンゴの⼀⼤産地へと発展していきました。

 

 しかし、りんごの作付けが増えるにしたがい、病気や⾍の害も広がっていきました。モニリア病、シンクイ⾍、腐らん病などが蔓延し、多くのりんごの⽊は切られ、りんご園は放置されました。

 

 この最⼤の危機を救ったのが後に「りんご栽培の⽗」と呼ばれる外崎嘉七(とのさきかしち)でした。岩⼿県でナシに袋をかぶせて病害⾍を防いでいることを知り、りんご栽培でも袋掛けを採⽤したところ⼤成功。他にも、剪定、実すぐり、薬剤散布や⼟の分析、⽌め⾦⼊袋を考案するなど、⾰新的技術の導⼊者で、⻘森県が⽣産⽇本⼀となるきっかけをつくりあげたのです。

 【幾多の危機に⾒舞われた⻘森りんご】

2018年の強⾵被害により倒⽊被害が相次いだりんご農園

 りんごの植栽が始まって150年、決して順⾵満帆ではありませんでした。

 

・明治33年

新葉、花芽、果実などを腐らせてしまう病気「モニリア病」が⼤発⽣し、農園によってはまったく収穫できない程の被害に⾒舞われる。

 

・明治35年

りんご樹⽊や果実にもぐり込んだり、腐らせてしまう害⾍が⼤量発⽣し、りんごの⽊を伐採せざるをえない農園が続出

 

・明治43年から⼤正6年頃

 病害⾍による被害が拡⼤し、多くのりんご農園が閉園に追い込まれる(第⼆次⽣産危機)

 

・⼤正13年

アメリカから新型噴霧器が輸⼊され、害⾍駆除に⼤いに役⽴ったため、豊作になるも、

 

・⼤正14年

⽣産数の多さから価格が⼤暴落 その後、昭和40年頃までは病害⾍や⾃然災害により、豊作と不作を繰り返しました。

 

・昭和20年

またしてもモニリア病が⼤発⽣。ほとんどの農園で⼤不作となる

 

・昭和24年

台⾵と雹被害(ひょうひがい)により出荷数が激減する農園が多発

 

・昭和29年

台⾵15号により約12万4千トンものりんごが落果

その後もモニリア病などの病害⾍被害や異常気象(雪害、⾵害)を繰り返し、農園の被害 は続きました。

 

・昭和56年

度重なる雹被害により20億円以上の被害が発⽣

 

・平成2年

果汁輸⼊の⾃由化により、国内で⽣産されるりんご果汁の需要が下がり始める

 

・平成3年

台⾵19号により被害⾦額が約741億7千万円という、りんご栽培史上最⼤の被害が発⽣。しかし、全国からの⽀援や農家、⽣産関係者の努⼒がみのり翌年の⽣産数は平年並みとなった

 

・平成20年

 りんごの花が芽吹く4⽉から5⽉にかけて霜が降り、さらに9⽉までの間に雹が3度も雹が降る。これによってりんごが傷つけられ、⼤きな被害が出る その後も、東⽇本⼤震災による⾵評被害や異常気象による被害などが続きました。

  • 雹(ひょう)被害により傷だらけになってしまったりんご(2014年)